| 25年目の原点回帰 |
吉田家

| SHOP DATA | ||||
| 住 所 | 静岡県伊東市吉田753-3 | |||
| 電話番号 | 0557-45-5475 | |||
| 営業時間 | 11:00~22:00(月・水~日) | |||
| 定休日 | 第3水曜 | |||
| 席数 | カウンター12 テーブル8 | |||
| 駐車場 | あり | |||
| 緯度経度 (日本測地系) | N 34゚56'13.9'' E139゚07'11.2'' | 地図を見る | ||
| 最寄駅 | ||||
| 取材日 | 2020/05/25 | その他の情報... | ||
メニュー
- ラーメン+のり・たまごセット
- 900円
- ラーメン
- 750円
- ラーメン(中盛)
- 850円
- ラーメン(大盛)
- 950円
取材歴
ラーメン紀行が始まって今月で丸20年と言う節目の月であることから、多事笑論では「ラー紀と世の中と私の20年」と言う内容でこの20年を振り返った訳であるが、今回の取材はその20年の原点に立ち返る取材にしたいと思っている。
コアなラー紀読者の皆さんは勿論お判りであろう、伊東市にある吉田家への取材である。
今から約四半世紀前の1995年11月。
当時、私の友人が吉田家の前にあったゴトーという紳士服店に勤務していた時のこと。友人と実弟の3人でその友達の勤務先に赴いた時のことだ。(勿論、一切買う気はない)
その友人は当時、吉田家の入った建物の2階に住んでいたこともあり、吉田家のラーメンを結構な頻度で食べていたという。
当時の吉田家は、高倉健似の社長、腹心のヒロシ。若手のギョロ目君とスポーツ刈り君の4名で店を切り盛りしていた。
当時の私は所謂とんこつ醤油ラーメンというのを食べたことがなく、スープを一口すすった時に体中に電気が走るような衝撃を受けた。
四半世紀前の静岡県東部のラーメンといえば、サッパリラーメンに代表される鶏ガラベースのラーメンが大半を占め、白濁したスープといえば寿がきやのラーメンくらいだった時代と言えば、現代の若者にもどんな時代だったかが判るであろう。しかも、家系のオーダースタイルである「味の濃さ、麺の硬さ、油の量」がカスタマイズできるというシステムは、私の琴線に触れたのだ。
その後の私は皆さん、ご承知の通り当時、東京の環七沿いにあった「土佐っ子」というラーメンにまた驚愕を受け、ラーメンを食べ歩くことに目覚め、現在に至る訳だ。
最後に吉田家に赴いたのは記憶にないが、取材としての記録の最後は建物自体のリニューアルを行った2006年11月。既に14年の歳月が流れている。
そして、過去6回の取材記を読んでいて気が付いたことが2つある。
一つはメイン商品である「ラーメン」について、現在のようなスープ、麺、具材についての寸評が一切ないこと。
そして、どのラーメン屋でもメニューにあればオーダーしている味玉についての記載が一切ないのである。
また、14年も経てばメニューの内容や値段も結構変わっているだろう。
そして、一番大きな関心事といえば、風の噂に聞いた話として、前述した社長が亡くなったことを期に息子さんに代替わりしているという話だ。
実は社長が亡くなった話は当時、吉田家と懇意にしていた知り合いから聞いたことがあった。私もラー紀に掲載する店を新規開拓する日々であり、代替わりした吉田家の味にこれまで触れたことがなかったのだ。
そんな25年の色々な思いややり残しを込めた取材になりそうだ。(長い前置きだ…)
話を戻して今日は月曜日。
年に一度の健康診断が会社で行われる。
通常の健康診断は社員が列を成してレントゲンや採血、身長・体重等の測定などを行う訳だが、流石にこのコロナ禍にあっては病院側がそのスタイル自体に難色を示したのか、スタートを5分毎ずらして行う。ラリー大会のスタートのような方式だ。
私のスタートは受付が9時45分。スタートが9時50分ということで順番的には中間くらいからのスタート。
これが終わってから静岡に出向いて午後から仕事な訳だが、こんな調子で午後一から仕事に間に合うのか?と考えた私は有給休暇を取っていた。
健康診断自体は30分強で終了。時計を見ると10時半少し前。そのまま伊豆縦貫道を経由して伊東方面に向かった。
1時間半後。
亀石峠を越え伊東市の宇佐美の海岸線の道に入ってきた。
昔も今も変わらぬ光景はサーファー達が波に乗っている姿。この道も何度も通った訳だが、3.11の震災直後に通った時は静かな波でさえ恐怖を感じたものだ。
伊東市への最後の取材は昨年8月の「じぇんとる麺」以来。昨今の新コロの影響で関東に近い観光地である熱海、伊東は避けてきた感はあるが、今回ばかりは仕方ない。
15分後。
当時のルートをトレースしながら吉田家に近づく。私は専ら裏にあるパーラーABCの駐車場を経由して店先に入る。丁度1台分の駐車スペースが空いていたので入庫後。早速、店内へ。
14年ぶりとは言いながらも店の構造自体は変わらない。ただ、そこにいる店員達は全くの初見である。オーダーは食券制。ラーメン、のり・たまごセット、小ライスをオーダーした。今回の好みは全て普通にしようと考えている。
女店員に食券を渡すと「外でお待ちください」とのこと。踵を返して一旦、店外へ。
店先に設置されたベンチには親子連れが座っていた。この親子連れが先客なのであろう。
何名かの客が店を後にしていく。中には県外ナンバーの車も見受けられた。年の頃は70近い男性2名。この時期に老人が感染リスクの高い伊東市に越境して来ることが自身の命にかかわる事をしている認識ってあるのだろうか。まぁ、神奈川県内もヤバいけど…
5分後。
前述の親子連れの後に店内に呼ばれた。空いているカウンター席に陣取った。
店内は若者2名と女店員の3名で切り盛りする。スープや麺を扱っているこの若者が社長の息子さんであろうか。まぁ、私に判る訳もないが。
厨房観察。
寸胴の数は大型の物が2器。丁度、スープ用の寸胴に生の豚背ガラを投入しているタイミングに出くわした。麺茹では平ざるを使用したもの。「パツッ、パツッ」と小気味良い音を聞くと、当時の吉田家(旧店舗内)の風景が頭を過る。何故、湯切りの音で当時を思い出すかと言えば、当時の吉田家でムダ口をきく客は殆どおらず、社長の接客の声、湯切りの音、麺をすする音、ヒロシが怒っている声しか聞こえなかったからだ。そんな状況下でも吉田家のラーメンが食べたいというコアな客が訪れる店だった。勿論、現在の店員2人もムダ口は一切しない。それは三島の「まくり家」にも伝播しているように思えた。
先ずは小ライスが。そして、ラーメンがやってきた。先ずはスープからすすってみた。
ベースのスープは豚背ガラ、鶏ガラを軸にした印象のライトとんこつスープ。白濁はしているが、そこまで濃厚という訳ではない。そして表層に浮かぶ鶏油もデフォルトでは量は多くなく、その後の海苔巻きご飯を堪能するには若干少ないかも。醤油ダレの塩梅は当時に比べると穏やかながら、後半に向うにつれ、やや強めに感じられた。
麺は太麺で軽いウェーブを持つもの。かん水の量は標準的、加水率はやや高めの印象を受けた。やや平打ち形状の断面を持ったそれはロットの最終の麺上げだった関係もあり、茹で加減はやや柔らかい。
具はチャーシュー、味玉、生キャベツ、ほうれん草、のり、ネギ。チャーシューは豚肩ロース使用の煮豚。味玉は黄身がトロトロのタイプで私好み。ただ、半身に切られて供される。生キャベツは久しぶり。途中で食べると塩味が抑えられて箸休めになる。
今となっては食べ慣れた味となったとんこつ醤油ラーメンというジャンル。そのジャンルをいち早く、県内に提供したこの店の功績は大きいし、先見の明があったと思う。
私が通いはじめて25年になる訳だが、既に老舗の風格さえ漂う。
末永く店が続いて欲しいと願う一軒である。
コアなラー紀読者の皆さんは勿論お判りであろう、伊東市にある吉田家への取材である。
今から約四半世紀前の1995年11月。
当時、私の友人が吉田家の前にあったゴトーという紳士服店に勤務していた時のこと。友人と実弟の3人でその友達の勤務先に赴いた時のことだ。(勿論、一切買う気はない)
その友人は当時、吉田家の入った建物の2階に住んでいたこともあり、吉田家のラーメンを結構な頻度で食べていたという。
当時の吉田家は、高倉健似の社長、腹心のヒロシ。若手のギョロ目君とスポーツ刈り君の4名で店を切り盛りしていた。
当時の私は所謂とんこつ醤油ラーメンというのを食べたことがなく、スープを一口すすった時に体中に電気が走るような衝撃を受けた。
四半世紀前の静岡県東部のラーメンといえば、サッパリラーメンに代表される鶏ガラベースのラーメンが大半を占め、白濁したスープといえば寿がきやのラーメンくらいだった時代と言えば、現代の若者にもどんな時代だったかが判るであろう。しかも、家系のオーダースタイルである「味の濃さ、麺の硬さ、油の量」がカスタマイズできるというシステムは、私の琴線に触れたのだ。
その後の私は皆さん、ご承知の通り当時、東京の環七沿いにあった「土佐っ子」というラーメンにまた驚愕を受け、ラーメンを食べ歩くことに目覚め、現在に至る訳だ。
最後に吉田家に赴いたのは記憶にないが、取材としての記録の最後は建物自体のリニューアルを行った2006年11月。既に14年の歳月が流れている。
そして、過去6回の取材記を読んでいて気が付いたことが2つある。
一つはメイン商品である「ラーメン」について、現在のようなスープ、麺、具材についての寸評が一切ないこと。
そして、どのラーメン屋でもメニューにあればオーダーしている味玉についての記載が一切ないのである。
また、14年も経てばメニューの内容や値段も結構変わっているだろう。
そして、一番大きな関心事といえば、風の噂に聞いた話として、前述した社長が亡くなったことを期に息子さんに代替わりしているという話だ。
実は社長が亡くなった話は当時、吉田家と懇意にしていた知り合いから聞いたことがあった。私もラー紀に掲載する店を新規開拓する日々であり、代替わりした吉田家の味にこれまで触れたことがなかったのだ。
そんな25年の色々な思いややり残しを込めた取材になりそうだ。(長い前置きだ…)
話を戻して今日は月曜日。
年に一度の健康診断が会社で行われる。
通常の健康診断は社員が列を成してレントゲンや採血、身長・体重等の測定などを行う訳だが、流石にこのコロナ禍にあっては病院側がそのスタイル自体に難色を示したのか、スタートを5分毎ずらして行う。ラリー大会のスタートのような方式だ。
私のスタートは受付が9時45分。スタートが9時50分ということで順番的には中間くらいからのスタート。
これが終わってから静岡に出向いて午後から仕事な訳だが、こんな調子で午後一から仕事に間に合うのか?と考えた私は有給休暇を取っていた。
健康診断自体は30分強で終了。時計を見ると10時半少し前。そのまま伊豆縦貫道を経由して伊東方面に向かった。
1時間半後。
亀石峠を越え伊東市の宇佐美の海岸線の道に入ってきた。
昔も今も変わらぬ光景はサーファー達が波に乗っている姿。この道も何度も通った訳だが、3.11の震災直後に通った時は静かな波でさえ恐怖を感じたものだ。
伊東市への最後の取材は昨年8月の「じぇんとる麺」以来。昨今の新コロの影響で関東に近い観光地である熱海、伊東は避けてきた感はあるが、今回ばかりは仕方ない。
15分後。
当時のルートをトレースしながら吉田家に近づく。私は専ら裏にあるパーラーABCの駐車場を経由して店先に入る。丁度1台分の駐車スペースが空いていたので入庫後。早速、店内へ。
14年ぶりとは言いながらも店の構造自体は変わらない。ただ、そこにいる店員達は全くの初見である。オーダーは食券制。ラーメン、のり・たまごセット、小ライスをオーダーした。今回の好みは全て普通にしようと考えている。
女店員に食券を渡すと「外でお待ちください」とのこと。踵を返して一旦、店外へ。
店先に設置されたベンチには親子連れが座っていた。この親子連れが先客なのであろう。
何名かの客が店を後にしていく。中には県外ナンバーの車も見受けられた。年の頃は70近い男性2名。この時期に老人が感染リスクの高い伊東市に越境して来ることが自身の命にかかわる事をしている認識ってあるのだろうか。まぁ、神奈川県内もヤバいけど…
5分後。
前述の親子連れの後に店内に呼ばれた。空いているカウンター席に陣取った。
店内は若者2名と女店員の3名で切り盛りする。スープや麺を扱っているこの若者が社長の息子さんであろうか。まぁ、私に判る訳もないが。
厨房観察。
寸胴の数は大型の物が2器。丁度、スープ用の寸胴に生の豚背ガラを投入しているタイミングに出くわした。麺茹では平ざるを使用したもの。「パツッ、パツッ」と小気味良い音を聞くと、当時の吉田家(旧店舗内)の風景が頭を過る。何故、湯切りの音で当時を思い出すかと言えば、当時の吉田家でムダ口をきく客は殆どおらず、社長の接客の声、湯切りの音、麺をすする音、ヒロシが怒っている声しか聞こえなかったからだ。そんな状況下でも吉田家のラーメンが食べたいというコアな客が訪れる店だった。勿論、現在の店員2人もムダ口は一切しない。それは三島の「まくり家」にも伝播しているように思えた。
先ずは小ライスが。そして、ラーメンがやってきた。先ずはスープからすすってみた。
ベースのスープは豚背ガラ、鶏ガラを軸にした印象のライトとんこつスープ。白濁はしているが、そこまで濃厚という訳ではない。そして表層に浮かぶ鶏油もデフォルトでは量は多くなく、その後の海苔巻きご飯を堪能するには若干少ないかも。醤油ダレの塩梅は当時に比べると穏やかながら、後半に向うにつれ、やや強めに感じられた。
麺は太麺で軽いウェーブを持つもの。かん水の量は標準的、加水率はやや高めの印象を受けた。やや平打ち形状の断面を持ったそれはロットの最終の麺上げだった関係もあり、茹で加減はやや柔らかい。
具はチャーシュー、味玉、生キャベツ、ほうれん草、のり、ネギ。チャーシューは豚肩ロース使用の煮豚。味玉は黄身がトロトロのタイプで私好み。ただ、半身に切られて供される。生キャベツは久しぶり。途中で食べると塩味が抑えられて箸休めになる。
今となっては食べ慣れた味となったとんこつ醤油ラーメンというジャンル。そのジャンルをいち早く、県内に提供したこの店の功績は大きいし、先見の明があったと思う。
私が通いはじめて25年になる訳だが、既に老舗の風格さえ漂う。
末永く店が続いて欲しいと願う一軒である。
